オケラ街道の奇人

令和という斜面に踏み止まって生きる奇人。自称抒情派馬券師、オケラ街道に潜む。

Kおじさん...のこと。

25年前の5月... Kおじさんが死んだ。
享年62才。
この7月に、私も62になる。

どこの家にも、必ず一人はいる「人前に出せない、場をわきまえない」親戚のおじさん。Kおじさんは、所謂、そういう類の人でした。

そこそこ働き者なのだが、その稼いだお金をみんなギャンブルや酒に変えてしまい(女はどうだか不明)、そこから脱しようとする気配もない。
無頼を気取っているわけでも人間嫌いというわけでもなく、どちらかと云うとお喋りな方で社交性もある。

《ただ、ちょっとだけ“社会性”を欠いていた》

一本気で、少々いい加減で勝手なところもあるが、人情をわきまえ義理堅いところがあった。
だから、寅さんのようで憎めなかったのだ。


私に競馬の面白さを教えてくれたのは、実はこのKおじさんなのである。


どちらかと言うと真面目で慎重な私は「お前は世間知らずだな...」と、叔父に冗談混じりの説教をされたのをよく憶えている。
どんなにインテリ共が「社会」のルール、効用の講釈を垂れても、多くの心情を通過してきた「世間」には絶対敵わないというのが、叔父の持論だったようだ。

確かに物事に対して性急に白黒をつけたがるのが「社会」で、それに待ったをかけるのが「世間」であろう。
「社会」は脆く「世間」はしぶといのかもしれない。
いつの時代も「世間」の力は無視できない。「世間」は強情なのだ。


しかし、今だからこそ思う。

世間は面倒くさい。

世間体? 義理だとか見栄だとか。
濃密でベタベタした人間関係。
もっと距離を保ち、突き放した関係で良いと思うのだ。
人間関係は深入りすればするほど危険なのではないだろうか?
愛情のもつれ? 裏切り?
その結末がどういうことになるのか?

叔父は遊び人ではあったが理屈っぽい(弁が立つ)ところがあり、明らかに間違ったこと(非常識な発言)を言われても私は反論出来なかった。
いつも「しかし...」「でも...」で口ごもってしまう。

文句を言いたいのだが、言葉に出していいのか?という葛藤。
考慮と配慮によって導き出された遠慮というものがある。

そして「でも...」と言っては次の言葉を飲んでしまうアレである。
叔父は、そんな私を見抜いていたのか?
「言いたいことはハッキリいわないとダメだぞ!」


Kおじさんは、世間体ばかりを気にし、とことん見栄っ張りであった。怪しい男たちとの付き合いもあったようだ。その結果どういう人生を歩んだのか? ここでは伏せておくが、誰の目にも決して幸福な晩年ではなかった。


ついに、私もKおじさんの歳に追い付いてしまうんだな。
新型コロナウイルスにて、志村けん氏や岡江久美子さんが亡くなりました。
自分と歳の近い人の訃報は本当にショックですね。

この数年、自分自身の健康についてよく考えるようになりました。
ストレスが最大の敵ですね。