オケラ街道の奇人

令和という斜面に踏み止まって生きる奇人。自称抒情派馬券師、オケラ街道に潜む。

【怪談?】あそこに何かがいる...

私がまだ小学校低学年の頃だったと記憶する。叔母が唐突に言った。

「あそこに何かがいるよ...」

ビクッとして、叔母が指す部屋の片隅に目をやった。
あの瞬間の恐怖は今でも忘れられない。叔母と二人っきりであるはずの部屋に、何か得体の知れないものが「いる」という恐怖。それは、まさしく瞬間的であり、生理的で説明するのが難しく、まだ幼かった私にとって、心底背筋も凍るほど恐ろしかったのだ。

当時の叔母はまだ20代?だったと思うが、怪しい宗教にはまっていたという話は聞いたことがなく、普段は穏やかで愛嬌のある人だった。
それが、たまに前述のようなおかしなことを言う。そんな時は、周囲も適当に話を合わせていたと記憶する。
今風?に言えば、多分「霊感」というものだったのだろう...。



私は霊感なるものは信じない。
彼等(彼女等)が「見える...」と言うのは、ウソをついているか、どこか狂信的な精神世界にあるのではないか?と感じるからだ。
彼らが「見える...」なんて言った瞬間 “この人に近付くな” という、私の脳内危険信号がピコピコと点滅する。
そうやって、それまで築いた人間関係が崩れたこともあった。


「霊は存在するなんて言った途端、自然科学体系は無に帰するだろう? 霊を信じるなら飛行機に乗るなよな!」

昔、霊の存在を信じる友人にそう言ってやったことがある。
しかし、彼はポカーンとして、その意味が分からないのか、、、「科学的に説明できないことだってあるだろ?」と、予想通りの反論をされた。
普通の感覚なら「霊が存在すること」と「科学技術によって飛行機が飛ぶこと」は大変な矛盾なのだが、彼はそう考えなかったようだ。


でもねぇ・・・。
霊の存在を頑固に否定する私だって、実際に見てしまったら嫌だなぁ~。
存在しないと分かっているのに、深夜の廃墟に一人で行け!と言われたら土下座してでも断るだろう。
基本的に私は怖がりやなのだ(笑)。


幽霊を見た(見える)ことがあるという人の大半は、聞いている人が怖がるのが面白くて嘘を付いているのだと思うのだが、どうも全てが作り話(ネタ)とも思えないところがあります。
どうやら、本当に霊が視えてしまう人がいるらしい。否、脳が見えたと判断してしまう人がいるのは事実。

見えるという事実は重い。
脳がそう感じるということは、その人にとってはあるのだろう。霊は人間の脳の中にある。

《霊は物質的には存在しないが、見えると感じる人がいる、、という意味においてはある》

「いる」と「ある」の違いなのだ。



さて、今日から(13~16)祖先の霊を祀るお盆ですね。
この期間は先祖が帰ってくると言われています。
信じる信じないは別として、私の行動は先祖に見られている。

“ だから、悪いことはできないのだ ”

これが、一番正しい霊との接し方なのだと思います。

次回(盆休み中)も怪談?の続きです。