オケラ街道の奇人

令和という斜面に踏み止まって生きる奇人。自称抒情派馬券師、オケラ街道に潜む。

カリスマは怪しい。

A家の仏間には、ある人物の写真を額縁に入れ大きく飾ってある。
自分の先祖の写真を端っこに追いやり、ど真ん中の一番目立つ場所に、大きく飾ってある。

ある時、A氏は北朝鮮国民のことを「みんな、本当に金正日(当時)のことを尊敬しているのだろうか? 洗脳されてかわいそうに...」と語った。
否々、北朝鮮の国民は、 洗脳された “ロボット人間” ではない。あれは恐怖政治でしょう? それに、制限されているとはいえ、意外と海外の情報に接する機会もあり、自分たちが置かれている立場も知っている。


A氏は自分の所属する宗教団体の長を尊敬している。否、盲信していると言っても過言ではない。

「○○先生はカリスマ性のある素晴らしい人ですよ!」なんて言いながら、その著書を紹介し「今度、(その宗教の)座談会に来てみませんか? 感動しますよ」と、言い出す始末。
ふざけちゃいけない!
北朝鮮国民のことを心配する前に、おのれの脳内を心配しろ!」と言ってやりたかったが、論争を吹っかけるということは、そのトラップに引っかかるということ。
狂信者と不毛の論争をしても勝てる訳がなく、黙殺するが一番。
宗教は否定もしないし、信じてその人が幸福になるのはいいことだと思う。しかし、折伏してこようとする人は本当に面倒くさく迷惑なのだ。


A氏は “カリスマ性” という言葉をよく使っていた。私はこの言葉が大嫌いなのです。このカリスマ性と呼ばれるモノの実体にはかなり疑問がある。
ワケはわからないが、近頃ではそんな空気、雰囲気のあるものを容易に「カリスマ性」という言葉で片付けてしまっていることが多い。

カリスマ美容師
カリスマシェフ
カリスマデザイナー
カリスマ店員
カリスマ主婦
カリスマモデル
カリスマ女子高生
カリスマ社員
等々

・・・ ね! バカでしょ?(笑)


狭い業界内の第一人者を、少数の信者によってカリスマ扱いされているケースが少なくない。
それをマス・メディアが取り上げて、勘違いしちゃってるカリスマさんが多いように感じるのです。
カリスマ性なんてものは私的な感情であり、尊敬の念もあるかもしれないが、権威や威圧によっても生み出されるんじゃないかな?


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私が大好きなフーテンの寅さんこと、車寅次郎はカリスマ性の欠片もない。
あるという人もいるかもしれないが、私が寅さんに感じるのは、権威的なカリスマ性ではなく「華」なのだ。

『カリスマ性 = 華がある』ではない。

寅さんが我々に啓蒙していたのは...
 “ LOVE&PEACE&FRERDOM ”
ですからね。
寅さんの魅力は、苦労の末、国民栄誉賞になったという偉業ではなく「世界一のアウトサイダー」を演じ続けてきたということなのだ。つまり、尊敬の念ではなく憧れなのだと思う。


憧れ?
少年時代の、私の憧れは・・・。
ご存知、ミスターこと長嶋茂雄

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この人もカリスマ性の欠片もないですよね?
王貞治野村克也落合博満イチロー等に感じるような、求道者のようなイメージが全くない。
意味深い言葉もなく、説教臭さが全然ないんですよね。
ミスターは単純に野球を楽しんでいる。そこにあるのは華なのです。
だからこそ、あれだけ球場に人を呼び寄せ、国民的人気を博したのだと思います。


ミスターや寅さんという、絶対的な「華の存在」の前では、努力や技術みたいな言葉は意味がないんですよね。
もっと原始的な本能を呼び起こさせる憧れのような感情なのだ。


人が集るのはカリスマ性などでは決してない。
「華」の存在が大切なのだと思う。


カリスマは怪しい。