オケラ街道の奇人

令和という斜面に踏み止まって生きる奇人。自称抒情派馬券師、オケラ街道に潜む。

三日とろろ 美味しゅうございました。

父上様母上様三日とろろ美味しゅうございました。干し柿モチも美味しゅうございました。
敏雄兄姉上様おすし美味しゅうございました。


(中略)


父上様母上様幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒 お許し下さい。
気が休まる事なく御苦労御心配をお掛け致し申し訳ありません。
幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。


前回の東京五輪(1964)、マラソン銅メダリスト、円谷幸吉の遺書。

この遺書は人々の心を突き刺す。
当たり前だろう...。

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文豪川端康成をして。

「売文の徒である私は・・・己の文章を恥じ自身を問責し絶望する。社会の辛酸をなめた大人は、時として、子供の純朴さに触れるとき、己の穢れた姿をみるのだろう。」

と、述べている。


円谷幸吉の物語は、沢木耕太郎著『敗れざる者たち』の中に収録されている、「長距離ランナーの遺書」をオススメしたい。
涙なしには完読できませんね。


国家の犠牲?
家(族)による過剰な期待?
個人の思いより、国の代表としての意識を優先させるのが美徳とされた?
今風に例えるならば、パワハラの犠牲者と言えるかもしれない。

でも、それを昭和、戦後という時代の空気、風潮のせいにばかり出来るのだろうか?

厳然と現在でも残っていますよ。

「私がここまで来られたのは、周囲の支えがあったからです...」
周囲の期待に応えるというプレッシャー。
地元のために、会社のために、母校のために、支えてくれた周囲のために、そして家族ために。
そういう考え方はやめませんか?

スポーツに限らず、様々なプレッシャーで苦悩している人は多いはず。

組織のため、悪に手を染める・・・。

円谷幸吉のように繊細で純粋なひとならば、そりゃ自死を選びかねませんよ。


そこで、周囲の期待より己の夢を胸に、ワガママと言われながらも海外に渡った野茂英雄のことを思い出すのです。




多くの問題を残して、今日開幕する
2021東京オリンピック

ここへ来て、また一悶着ニ悶着ありましたね。
オリンピックは何のためにあるのか?

純粋なスポーツの祭典ならいいけれど、一部の銭ゲバ野心のためならば、オリンピックという祭典は終わりにした方がいいですね。個々スポーツの世界大会があるのだから。

このブログを書きながら、多くの政治家や竹中平蔵の顔が散ら付いてイラッ💢としてくる。
唾棄したい程です。