オケラ街道の奇人

令和という斜面に踏み止まって生きる奇人。自称抒情派馬券師、オケラ街道に潜む。

ぬりかべと少年。

先の東京五輪
あまり夢中になって観ることはなかったのだが、そんな中で「おっ!」と思わせ、興味深く観たのがスケボーで金メダルを獲った堀米雄斗選手。

所詮、こどもの遊び。
ストリート系の不良がやるスポーツ。

世間でのスケボーのイメージは、まだまだそんなもので、顔をしかめる大人は少なくないかもしれない。
(私にも多少の偏見はあった...)


私は堀米選手の演技を観て懐かしさを覚えたのです。
あの自由で真剣な眼差しは、かつての野球少年の姿そのもの。
彼らは心から楽しんでいる。



  ぬりかべェ~~


f:id:okeraman:20210915133823j:plain



野球少年たちの原点は塀とのキャッチボールでした。

昔、伯父は小さな鋳物工場を経営しており、その構内に我が家は住んでいた。その周囲はブロック塀に囲まれ、少年時代の私は、その壁に向かってボールをぶつけては、跳ね返ってくるボールをキャッチしていた。

何度も何度も真剣に・・・。

ブロック塀と対峙した私は、想像の中で星飛雄馬となり、対する打者は田淵幸一であったり山本浩二であったりした。

ブロック塀と少年は、まるで、鬼太郎と妖怪ぬりかべの対話のようで、いくらぶつけても、ぬりかべは黙って受けてくれる。
私の野球の基本は、あの頃の塀とのキャッチボールで培ったのかもしれない。

偉大なり!ぬりかべ(笑)

どうでしょうか?
街の、、公園の片隅で一人黙々と練習しているスケボー少年と共通するものを感じるのです。




あの頃。

地域には原っぱがあった。
子どもたちは、学校から帰るとランドセルを放り投げ、のび太の如くバットにグローブを刺し肩に担いで、私服のままそこへ向かうと三角ベースボールが始まる。

A少年が投げ、B少年が打つ。
打球は原っぱを越え通りの向こう、民家のガラスが「ガチャーン!」と割れる。その瞬間、子どもたちは蜘蛛の子を散らすように逃げる。
「チームプレイ」等という退屈で面倒くさい概念はない。皆、どんな小柄な少年であろうと、ホームランを狙う。心の中では王選手になり切っている。
自分たちのルールを決めた上で、自由に楽しんでいるのだ。

f:id:okeraman:20210918155740j:plain


宅地造成。
街から原っぱ、空き地が消えた頃からだろうか? 野球少年が激減した。キャッチボールする場所を探すのも苦労する。

野球好きの少年は、優雅な自由で楽しい原っぱ野球を経験することなく、いきなり少年野球チームに入る。そこには監督、コーチと称する、子どもたちにとっては煩わしい大人が介入してくる。
お金のかかるユニホームも必要なのだ。

大人の指導者は、子どもたちに「チームワーク」の大切さを叩き込む。
チームのための適材適所。
かわいそうに小柄な少年は、チームプレイとしての単打、犠打を強制される。投手だってやりたいだろう。
そこに「遊びの精神」「自由な精神」はなく、何より楽しくない。

チームワークの大切さは、教えるのではなく、経験することによって自然に身につくものなのだ。

大体、場所がないということもあるが、子どもたちの遊びに大人が介入するのはいかがなものか?と、思う。
野球(スポーツ)を通した精神論を、高校生以上はともかく、野球の入口に立った子どもたちに押し付ければ嫌いになってしまうのではないだろうか?
子どもなんてそんなものだ。

『野球(スポーツ)を通して青少年の健全な心身の育成に・・・』
そんなことを言った途端に、子どもたちは野球から離れていきますよ。

健全な心身の育成なんて、スポーツではなく、親、教師、周囲の大人が見本を示すべきことです。


スケボー少年たちの姿を見ていると、塀とキャッチボールしたり、原っぱ野球でボールを追っていた少年時代のことをノスタルジーとなって甦る。
そこには、精神論を振り翳す鬱陶しい大人(指導者)は介入せず、皆、自分なりに上手くなろうと懸命に練習している。自由にのびのびと、そして楽しく遊んでいるのだ。


おい! ぬりかべ。

お前と戯れる少年は滅びたぞ。


・・・・・・・・・・・・・・・・


ところで、近頃の少年野球チームは、少年たちの親までしゃしゃり出て応援にくるらしいね?
そして、試合があると弁当を作ったり手伝いに来るとか...。

やたら子供に理解ある親より、
「遊んでばかりいないで、たまには勉強しなさい!」って親の方が、子供にとっては気が楽なもんだぞ。

違うかな?