オケラ街道の奇人

令和という斜面に踏み止まって生きる奇人。自称抒情派馬券師、オケラ街道に潜む。

水牛。

 

松下君(仮名)は私の数少ない友人の中でも特に仲が良かった。大学時代最初に話すようになったやつで、彼は山形出身東北弁のいかつい大男。

まだ付き合いが浅かった頃、私の話に同調するとき「んだ!んだべ、、」と言ったもんだから私は指を差してゲラゲラ笑った。お年寄りならともかく、私と同世代の若者が使う言葉か?と思ったからだ。もう、その訛りが面白くて可笑しくて、今思い出すと失礼にも程がある。現代なら完全にNGですね?

因みに私は人見知りが激しい方で、いくら仲が良くても一緒になってはしゃいだりすることが苦手な性格。そんな私が彼に対しては平気で冗談ながら突っ込むことが出来た。私は彼にその巨体と朴訥な性格から失礼にも「水牛」というニックネームを付けた。それでも彼は嫌な顔もせず苦笑いを浮かべるだけ。彼は見た目は大きくてコワモテだが人懐っこく、私と同じようにシャイな性格でもあり気が合った。

大学の講義の合間に時間が空くと「茶店でも行ぐべが?...」と寄ってくる。あの人の良さそうな顔を思い出す。
あの頃はインベーダーゲームが流行っていたので喫茶店でよくやったな。
それから初めて吉野家の牛丼を食べたのは、他に数人の仲間もいたが彼も一緒だった。異常に食べるのが早かったので、それも水牛というあだ名を付けた理由の一つかもしれない。


なぜ、やつのことを思い出したのか?

来週は天皇賞(春)がありますね?
まぁ、勝つのはタイトルホルダーでしょうが?それはここでは関係なし。
過去の天皇賞(春)の勝ち馬をスマホで眺めていると “カシュウチカラ” という馬名が目に入ってきたのです。

彼の記憶が甦った。

1979年のこのレース、私は西新井に下宿していた松下君のアパートでテレビ観戦していたのです。
当時は馬連、3連馬券はなかったのですが、結果、彼は単勝枠連ともW的中で2万前後?の利益(1着カシュウチカラ 2着サクラショウリ)。
キャプテンナムラともう一頭(多分、バンブトンコートだったかな?)買っていた私は完敗。
山形から上京してきた素朴な彼に競馬の面白さを教えたのは私ですよ!
悔しがっている私を横目に彼は大喜びでしたが、その実、私も彼が当たってくれて嬉しかったですね。

大喜びの松下君は、余程嬉しかったのか?「飲みに行ぐべか?」と、私を飲みに誘ったのです。

まだ、20か21でしたからね。
それまで私は酒を飲まなかったというより、全く興味はなくワカゾーのくせに居酒屋で飲むなんて不良だと思っていたほどです。

私は松下君に競馬を啓蒙した。
彼は私をヨッパライ道に導いた。

あいつ、強かったな。。。

当時、酎ハイ、レモンハイ、レモンサワーの類が出始めた頃じゃなかったかな? 美味しかったな。
松下君はそれを平気で10杯以上飲む。

その後、居酒屋通いがくせになり、それが高じると六本木や新宿のディスコ通い。毎週のようにジョントラボルタ気取りのサタデーナイトフィーバーを数人の仲間としてましたよ。あれは楽しかったな。

素のオールドボトルを肩に載せ、咥えタバコで粋がって歩いてました。
勿論、弱っちょろいから絡まれたらすぐ逃げますけどね。私の必殺技はパンサラッサの如く逃げ足なのです。

話は横道に逸れてしまいました。
何を云いたいのか? 青春ってたまらなくこっ恥ずかしいけど、楽しかったってことですね。


今回のブログ更新は天皇賞春から、カシュウチカラ、そして松下君の記憶からまとまりのないものになってしまいました。還暦を過ぎた頃から? なぜか昔のこと、特に社会人以前のことをよく思い出すようになりました。
これを老いの始まりというのかな?


その後。

松下君は20代半ばで地元の山形に帰りましたが、数年に一度は東京か仙台で会う機会もあり付き合いは続く。
しかし、お互いに生活もあり徐々に連絡を取り合うことも減りました。
最後に連絡取り合ったのは15~6年前ですかね? こっちも不義理してました。

「友」という言葉は照れくさいけれど大切だと思いますよ。
私は人付き合いを面倒くさく感じるタイプで孤独が気楽と思っていますが、古い友は大切にしています。

つるむ奴はいらないが友は財産。