あれは小学校3年生の頃だったかな?
新学期になると恒例?の席替えがあったと記憶するのです。
担任教師「それでは仲の良い人同士で自由に組んで下さい!」
当然、私は気の合う田代君(仮名)か稲葉君(仮名)の方に顔を向けると、そのふたりは既に一緒に組んでいた。
(まずい! 相手がいないよ...)
多分、男女とも偶数人数だったと思われ、担任教師もそれを見越して、最終的にはハグレ者同士を一緒にさせればいいと考えていたのだろう。ひどい先生ですね。 現代なら問題になる?
私は他の相手を探し周囲をキョロキョロするのだが、殆どのクラスメートは相手が決まっているようで焦る。
自分は孤立している? ぼっちなのか?
(当時は “ぼっち” なんて言わない)
すると、同じように相手が見つからずキョロキョロしているやつがいた。
目が合ってしまった。
乱暴で嫌われ者の原君(仮名)である。
最悪だと思った私はその視線を避け、他にいないか?キョロキョロ。
いない! もう、ぼっちは私と原君だけなのだ。原君しか残っていない。
原君は口元を緩めながら、嬉しそうに私の方へ近寄ってきた。
彼は巨大な肉の壁。当時、どちらかと言えば小柄で華奢だった私より倍ぐらい重量があっただろう。おまけに乱暴ときているから周囲の友達も私に同情の目を向ける。遠い日の思い出なので記憶は曖昧なのだが私は原君というデブが大嫌いだった。それから次の席替え迄の数カ月間は地獄の日々であったことは想像に難くない。
長野県中野市で立てこもり事件がありましたね。詳細ははっきりしませんが動機とされているものが気になった。
「ぼっちとバカにされていると思ったから殺した」
ん! ぼっち?
漫画(アニメ)『ロボタン』に出てくるキャラ、ボッチのことか?
ボッチ&キーコはキュートだろう?
ボッチに思われれば光栄だろう?
なんて、、それは冗談です(笑)。
ぼっちの意味は “友人がいない、交友関係がない、孤独な身の上”とある。
つまり、コミュニケーション能力に問題があり面白味のない陰気なやつ?
ということになるのだろうか?
私は中野市青木容疑者のニュースを見た時に、冒頭で書いた席替え事件のことを懐かしく思い出した。
気持ちは何となく分かる。
だからと言って他者を殺める理由にはならないし、心の闇は誰にも分からないけれど彼は単なるサイコパスなのではないかと思う。
ここで言うぼっちは、イジメのきっかけになることがある。
数人が集まり他者の噂話になると必ず「○○って、あまり喋らないだろ?」と言うバカがいる。
そこから、あいつは “陰気” だというレッテル貼りがされるのだ。
私はそう云う噂話をする輩を軽蔑しています。唾棄してやりたい程だ。
それは別として...。
昭和に比較して「個(孤)」を尊重する時代になってきたというのに、それとは反比例するように、“ぼっちに見られたくない” と、他人の目を気にする人が多くなってきた印象だ。
何年か前に、学食等で一人(ぼっち)で食事をするところを他人に見られたくないとの理由で、トイレの個室で隠れて食べる学生がいると話題になったことがありました。
独りめし、、友達もいない陰気なやつと思われたくないかららしい。
「便所飯」と謂われましたね?
う~~ん。
私なんか大抵独りだったぞ!
むしろ、ぼっちでいることより、いつも誰かと群れているやつと思われることの方がずっと不名誉だったぞ。
群れて人に気を使うより、弧である方が全然気楽でいいぞ。
それを他人の目を気にしてオドオドしているから滑稽に映るのです。
「ぼっち」と「孤独」は意味合いが違うものでしょうけどね?
孤独で心を病む人は多いらしい。
おれは木枯し紋次郎に憧れていた。
紋次郎をぼっちとは言わないのだ?
寅さんだって根は孤なのだ。
戦隊物のような群れるヒーローより単独である黄金バットの方がかっこいいだろ? 孤高だからである。
おれは将来、ガード下のおでん屋台で独り飲みの似合うオヤジになりたいと思っていた。他者の目に “ぼっち飲み” と映れば渋くて格好良いだろう?
「オヤジ! 熱燗浸けてくんな。がんもどきと大根、ツミレもな...」
ある程度年をとれば、何をするにも何処へ行くにも皆ぼっちなのだ。
(家族は別として)
ぼっちは自由なのである。